過去の自分よ聞け

[初投稿]人間関係の難しさを過去の自分に

初投稿ながら昔の自分に対して、人間関係を難しくしているのは他人ではなく、自分がすべての要因であることをこれまでの

経験をもとに伝えたい。

もしかしたら他の人たちにも参考になるかもしれない。参考になったらうれしいし、俺の屍を越えてほしい。

とりもんく
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とりもんくです。twitterもやっています。

記事の目次

  1. [結論]メタ認知を理解すれば他人との関係でもつれることはない
  2. 自分がなぜ人間関係維持がへたくそなのか
  3. 現代人は自分への認知を歪めやすい
  4. 他人に当たる行為は悪影響しか生み出さない
  5. 他人は他人、自分は自分
  6. 察してほしいは説明責任の放棄
  7. 自分を顧みてもどうにもならない例外が存在する
  8. 軸を持ち自分で考え能動的に動く

[結論]メタ認知を理解すれば他人との関係でもつれることはない

最初に結論を書いてしまうと、昔の自分が最も人間関係において大事にするべきだったことは他人との距離感を見定めることである。そこで重要なのが、他人の距離感を侵害しないためのメタ認知である。

メタ認知とは何か?

簡単に言うと「自分の認知を認知すること」

「認知」とは考えていることや感じていること、記憶や判断などを指し、これらを第三者視点から俯瞰して見ているように認識することがメタ認知だと調べた結果わかった。

特に、このメタ認知は人間関係を破綻させないための最適解だと考える。自分が相手に対して何を感じているのか、どのような感情を持っているのかを第三者視点から見れるようになると

あ、いまこいつ(←自分)イライラしてるな。どうしたんだろ

このように自分の状態を自分で認知でき、膨れ上がった衝動や感情に惑わされなくなる。他人との会話は感情を挟むと成立しなくなる。

多くの場合、人間関係のもつれは会話が成立しない状態が続くことが原因だと勝手に思っている。

俺がなぜ人間関係維持がへたくそなのか

上記で示した通り、昔の俺にはメタ認知が足りなかった。典型的な感情丸出しクソ迷惑やろう

会話で気に食わないことがあればすぐに膨れ上がった感情を相手にぶつけ、他人の境界線なんぞ気にせず発言。論破されたらすぐに拗ねて被害者ヅラするめんどくさすぎるやつだった。

こんな人間が忌み嫌われるのは必然だった。幸い、俺の場合ギリギリ改善方向に向かわせられたため、今も友人が周りにいる。

あのまま行っていたらどうなっていたのかは想像したくない。

現代人は自分への認知を歪めやすい

ギリギリ改善方向に舵を切れた俺だからこそ、最近の同世代の人間は昔の俺のような大人でありながら未熟な子供が増えてきたように思える。

それは、自分が考えている「他人から見られている自分」と実際に他人から「見られている自分」の認識に大きな誤差があることだ。

簡単に言えば「自意識過剰で自分勝手な人間が増えてきた」というもの

現代は簡単に情報にアクセスできる分、真偽不明のエセ情報ばかりだ。

にもかかわらず、真偽を確かめようとせずただただ自分に都合の良い情報ばかりを浴びることで狭い世界でしか物事を捉えられなくなる。

結果、不都合な意見を純粋に聞き入れられなくなり、自分が正しい、そしてこれは他人も理解してくれると妄想し押し付けてしまう

まさに過去の自分。自分が妄想する「他人から見た自分」と、実際に「他人から見た自分」の認知の歪みは、この現代社会において

日に日にひどくなっていると感じた。

他人に当たる行為は悪影響しか生み出さない

さて、自分への認知が歪んだ人間は自意識過剰で自分勝手な人間に収束すると上記で述べた。

これらの人間は往々にして他人と衝突する。人を尊重できないから。

自分がイライラしたら平気で他人にあたり、自分の自尊心を満たす。これほど害悪な行為をされた側はさぞ気分最悪だろう。

このような人間は当然社会から淘汰される。周りの人間に不快感を与え、自分の存在価値を下げまくるからだ。

他人に当たる行為は百害あって一利なし今すぐ自分を顧みてほしい。

他人は他人、自分は自分

人間関係はその人その人で変わる距離感が最も大切だ。

であるなら、他人は他人、自分は自分と区別できれば、自然と距離感は調節されていく。

言葉や表情といった気持ちのアウトプットでの情報伝達は、必ずしも正しく伝わるとは限らない。

自分に意識が向けば向くほど相手に意見(情報)は伝わらない。自分と他人の区別を意識できれば、

自分の思考を相手に伝わるようかみ砕いて言語化する努力ができるようになる。相手のことを考えられるようになり、自分の見栄と

承認欲求で起きていたいざこざが消える。

無理に深い関係を築く必要はない。適度な距離感を保つ。自分と他人が快く関係を維持できる距離感を。

察してほしいは説明責任の放棄

距離感を保つには、他人とのコミュニケーションは必須だ。

言葉というアウトプットで初めて、自分の感情を相手に伝え、逆に相手の感情を知ることができる。

しかし、このコミュニケーションの中で、俺的に使うことを避けるようにしたフレーズがある。

「察してほしい」だ。

上記で述べた通り、

[言葉や表情といった気持ちのアウトプットでの情報伝達は、必ずしも正しく伝わるとは限らない。]

実際にアウトプットしたとしても正しく伝わるとは限らないにもかかわらず、自分の状態と感情の説明責任を放棄して

「察してほしい」の一言で他人に丸投げしてしまうは、自分に意識が向いてしまっている状態であり、

この状態では他人との人間関係が悪化の一途をたどる。相手に伝えたいという意思があるなら、自分の感情と心情を

言語化してほしい。察してほしいでは正直何もわからない。

自分を顧みてもどうにもならない例外が存在する

ここまで如何に自分の愚行が他人を不快にさせてきたかと、それを顧みることでましになるという話を綴った。

しかし、いくら自分が変わろうと人間関係が悪化する人種が存在する。

そう、いじめ行為を行う人間とそれに加担する人間だ

彼らは同じ人間ではない。話の通じない肉塊に時間を使う必要はない。

現在いじめられている人には残酷な話となるが、そのような人間と絶縁し、環境を変えない限り

一生その人間の愉悦を満たすだけの玩具に成り下がる。

自分が変わっても事態は何一つ好転しない。改善策はただ一つ。

その人間に関係するすべてを断ち切って環境を一新するほかない。

学校、住む地域、かかわる人間、端から端まで余すことなく一新してほしい。

アホの盤上で戦うべきではない。

軸を持ち自分で考え能動的に動く

最後に、人間関係において重要なことは自分で動くことだ。

何事でもそうだが、現状を変えたければ他人の動きに期待する行為は時間の無駄。改善したいのであれば、

能動的に動いて自分で変える意識を持つ。

自分で動かなければ、自分軸で物事を捉えることができない。他人軸で生きている間は

良好な人間関係を構築できない。対等でお互いを尊重するためには、自分軸で自分を主張することも大切だ。

以上で記事は終わり。この過ちを参考にしてくれる人がいれば幸いだ。

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